消えない染み

加藤シゲアキさん原作・脚本、正門良規さん主演「染、色」、配信にて拝見しました。

 

 

湿度が‼️高い‼️

(バチコリ褒めてます)(バチコリは寺西拓人の真似です)(バッチリって意味らしいです)

観終わったあと、開口一番に「湿度たけぇ〜……」と天を仰ぎました。梅雨にぴったりだと思います(?)

全体的にジメッとした感じで、かつ油絵のようなベッタリ心に張り付くような感覚がありました。これがシゲシゲしいということなのでしょうか…?

一度見たら忘れない三浦透子さんの演技もこの感覚に大きな影響を与えていると思います。まさしく怪演でしたね。そして何より正門さんがあんなに観る者を惹きつけるお芝居をするのは予想外だったので、本当に驚きました。


噂には聞いていましたが、これは考察しがいのある作品だなあと思い、ブログを書き始めました。ただ、生の舞台は観に行ってない上に原作未読です。観劇が趣味の小娘が思いついたことをつらつらと書き連ねている超絶自己満足なブログなので、解釈違いや記憶違い等あってもご容赦ください。。。

 


⚠️ここから先はネタバレを含みます⚠️

 

 

この作品のテーマは「自分で自分のことを染め上げた一人の男」だと思いました。

私の思う真未の存在は、深馬の持つコンプレックスや失くしかけていた感情や絵に対する熱意、芸術家としての理想などの内在的な衝動によって生まれてしまった深馬のモンスター的存在(語弊)のようなものです。語弊しかないですね。ちょっと説明させてください。


真未という名前、エンドロールを見るまでカタカナ表記だと思ってた観ていたのですが、漢字だったことで解釈が広がりました。真は「まこと」、未は「まだ〜しない」という風に取って、真未という名前には「まだ真にしない」転じて「まだ真ではない」という意味が込められているのではないかと解釈しました。

内に閉じ込めていたものから生まれたため、深馬の中に真未という存在は確かに在りました。でも、自分でも気づかないうちに現れて絵を描いていくという点や真未を目の前にすると絵や快楽に夢中になってしまう点から、まだコントロールができない状態=真未を自分のものにできてない状態 であることが分かります。真未は深馬ではあるけれど、まだ真の深馬にはなっていない、みたいな意味が込められているのではないかなぁ、と。これ言語化するのすごく難しいですね。伝わっているのだろうか……


コントロール不能な感じや、深馬から生まれたからこそよく分かる深馬のコンプレックスを否応なしに刺激してくるところとか、なんだかゾッとする特異な存在だなと思ったので、モンスターと表現した次第です。とはいえ、部屋に残るスプレーの染みは1人では届かない位置であったので、真未は本当にいたのかも…?とも思わされます。ウ~ン、悩。

 

 

そんな深馬と真未ですが、恋愛関係に発展しているのはどうしてだろうと不思議でした。私にとって深馬=真未なので、自分の分身とそういう関係になるのって気持ち悪いな〜と思って観ていました。そもそも深馬お前彼女おるしな❓とも思いました。そこで出てくるのが「深馬と杏奈の間に愛はあったのか問題」です。そこに愛はあるんか?です。愛が1番アイフルではないです。


最初に言わせてほしいのですが、私は杏奈のことが嫌いです。というか気持ち悪さを感じます。多分杏奈のこと好きな人の方が多いと思うので、そういう人はここを読み飛ばしてください🤝

 

 

杏奈って、自分には芯がないと思っているのかもしれないしそう言ってはいますけど、ゴリゴリに芯ありますよね。どれだけ避けられても好かれてないと気付いていても深馬のそばにいて、寄り添うって相当心決めてますよね?

私はそんな杏奈の異様なまでの執着心が「才能のある孤高の存在な彼と献身的に尽くす私」という理想像を深馬と自分に重ねているだけのエゴのように感じて、それと同時にに杏奈がどんどんどんどん気持ち悪くなってしまいました。

真未が現れる前ですら2ヶ月会ってないことがある仲で、次第に深馬は真未に熱を注いで、2人の関係性はそこそこ冷えていたと思います。それでも、倒れた深馬の側に1週間いたの…?病室で深馬の代わりに北見と原田に奥さんヅラしてたの…?それってちょっと怖くないですか…?という気持ちです。もちろんこれを深馬への想いがあったからだ!と考えることもできるし、そう考えられる人は杏奈のことを好きなんだと思います。病室のシーンが現実かどうかも分からないですしね…


そして深馬が杏奈のことを好きだったかどうかですが、これに関しては最初から惰性で付き合ってるようにしか思えませんでした!北見がアピールしたにも関わらず深馬と付き合ったという流れから、杏奈が深馬へアピールしたことが伺えます。(何か描写忘れてたらごめんなさい)

自分のことが好きで、自分のことを支えてくれて、耳障りの良い言葉をくれる。だからそんなに好きでなくても向こうが勝手に関係性を続けてくれる。ただ、自分のことを本当に理解してくれているわけでもないので、どこか虚しい付き合いだと思っていたのではないかと推測しています。

そして、惰性で付き合ってても独占欲って出るものだと思っているので、杏奈と会っていた北見にイラついたのも杏奈への愛ゆえではなくて、自分のことを好きなはずの杏奈が他の人を見ることに怒りを覚えたんじゃないかなぁ。え~~~罪な男じゃんやっぱり‼️杏奈早よ別れな⁉️

ちなみに深馬がなんだかんだで杏奈を頼るのは、弱ってるときに縋る相手に杏奈が丁度よかったからだと思っています。無条件に自分を受け入れてくれるもんね。マジで罪な男です。


まあそんなこんなで、この2人の間に深い愛はなかったと思っています。もしあったとしても杏奈→深馬への一方的な愛かな。

 

 

そんな歪んだ2人の関係の中で現れたのが真未でした。先述のように、真未は深馬の中から生まれたモンスターなので、真未と深馬は異なるようで実はすごく似ている(というか同じ)特性を持った存在です。ここで、同気相求という言葉を紹介させてください。

 

どうきそうきゅう【同気相求】

似た気性の持ち主は、相求め合って自然に寄り集まるということ。

 

真未と深馬はまさにこれで、お互いに求め合ったのだと思います。深馬は、杏奈では得られなかった本物の愛を、真に自分のことを分かってくれる真未を相手にしてようやく得ることができたのではないでしょうか。皮肉なことに、その真未は間違いなく自分であったわけですが。深馬が夢中になった相手も、最大の理解者も、深馬だったわけです。杏奈も深馬も、結局は自分のことを愛していたんだと思います。

 

 

さて、話は変わって本作では「秋に咲く桜」という言葉が繰り返し出てきました。この言葉についても少し掘り下げたいと思います。

私の中では、桜というのはすなわち深馬のことです。真未という予想外の存在の登場によって間違って咲いてしまった自分の才能を秋に咲く桜に擬えて、自分の才能は、今後も開花させることができるのか、という自問なのではないでしょうか。自らの未来への恐怖が含まれているようにも捉えられますね。

真未を失ったと思っている深馬は今後、自らの才能を発揮していくことができるのでしょうか?これは真未の消失をどのように捉えるかによって解釈が変化すると思っています。


最後に出てくる真未は、白いワンピースを着ていますが、作品の随所に散りばめられている「色の変化」も物語を見るうえで重要な鍵を握っています。簡単に言えば黒は真未であり夢と幻覚の色、白は深馬の本当の色だと思ってください。

この考えを基にすると、ラストで真未の衣装が白くなったということは、真未の存在が深馬に飲み込まれた=真未は深馬の"真"になった と考えることができます。

そして、真未が深馬の“真”になった先の結論は2通り考えられると思います。

① 季節外れの才能を開花させてくれた真未を吸収した深馬は、今後も桜を咲かせるように才能を発揮させることができる  

② 自分の中のコンプレックスや感情、絵への熱量を抱えた真未は元の無気力な深馬に飲み込まれて消失したから、これらの感情が戻ることはなく芸術の道は断たれる

の2通りがあり得るかなという感じです。私的には冒頭でテーマとして示したように、深馬は自分のことを染め上げたと思っているので①の解釈です。

 


ところで、色の変化という観点だと、2人で描き上げる絵の色合いや腕に付く染料にも心情の変化が見られますよね。

真未の存在を認識するまでは、深馬が描く絵はただの白いスプレーでしたが、何個も絵を描いていくうちに色合いが増えていきます。それと同時に深馬の絵への情熱や感情も戻っていく。腕に付く染料はそもそも真未が現れるきっかけでもありましたね。絵と同じように、腕の染料の色が増えるごとに芸術家として必要な感性を取り戻しているように感じました。

これは割とどうでもいいことなのですが、首元のピンクの染料はキスマークの比喩表現だったりするのかなと思っていますがどうなんでしょうか……

あと、杏奈がその染料を拭き終わる前に何か閃いてスケッチブックに絵を描き始めますが、杏奈の表情からして何を描いていたのかめちゃくちゃ気になります。もしかしたら真未の絵でも描いていたのかも?なんて思ったりしました。


そしてスプレー缶の存在もかなり気になっています。深馬にとってスプレー缶は北見や原田よりもずっと重要なファクタを担っていると思います。

深馬がふざけて真未ののスプレー缶を1つ隠す場面ですが、スプレー缶だけであれほど動揺する真未に私はひどく恐怖を感じました。また、真未と別れた後、ポリダクトリーとして壁に描いた絵にスプレーをかけようとするも、スプレーの残量がなくなってしまったことに気づいた深馬も、大きな叫び声を上げます。

スプレーが深馬(真未)にとって非常に重要な存在であることを強く感じました。

この2人(1人)にとっては絵を描くこと=スプレーアートであって、その道具であるスプレー缶自体が絵を描くことの象徴として扱われているのだと解釈しました。そして深馬は絵を描くことでしか何者かになることはできません。スプレーがなくなるということは自らの人生から絵を描くことを取り上げられてしまうということであり、結果として何者かになることはできないということになってしまう。だからこそ、あれほどまでに恐れ、動揺していたのではないでしょうか。

 

 

最後に、絵のモチーフについても触れておきたいです。私にとって最も印象深い絵は山羊に蛇が絡みついている絵なのですが、山羊と蛇と来たらこの2つにライオンを足したキマイラ(キメラとも言います)が思い浮かびます。キマイラは、山羊の部分が「速やかな恋の成就」、蛇の部分が「失望や悔恨」、そしてライオンの部分が「恋愛における相手への強い衝動」をそれぞれ表すとされたり、その奇妙な姿から「理解できない夢」の象徴とされています。(出典:Wikipedia)こう考えてみると、かなり物語に合うような気もしてきますが、ライオン要素ってどこかにありますかね…ここだけはあまり納得する解釈ができず、モヤモヤしております。有識者の方教えてください…

※補足 深馬と書いてシンバと読めると教えていただきました…変な字だな〜としか思ってなかった(恥)佐野担なのにシンバに気がつかなかったなんて…

他にもキマイラの性別は女性とされていることや卵から胎児のように変化した絵など、「女性」を連想させるようなモチーフが多かったなと感じました。真未が女性の姿で現れたことと何か関係があったりするのかな。

 


さてはて、他にも原田の滝川への恋心や、どこまでが妄想でどこからが現実なのか、他の絵のモチーフは何の意味を持っているのか、など、色々考えたいこともありますが、ちょっとボリューミーになりすぎてしまったのでここらで一旦たたみます。(越岡さんのweb風)

個人的には黒深馬は完全に妄想、白深馬が現実、グレー深馬は虚実ないまぜというイメージです。(たたんでねーじゃん)


それにしても役者さんが少ない分全員のお芝居をしっかり見ることができて、とっても面白かったです。ジャニーズでのパフォーマンスでも思うことが多いのですが、やはり正門さんは表情のつけ方が上手ですね。これからもっとお芝居の仕事が増えるんじゃないかな?と思うくらい、素晴らしい演技でした!私は北見が好きです!北見と友達になって一緒にお酒を飲みたい🍻

 

5000字を超える文章になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました!